楠田 ゆかり氏
クスダ英語塾 塾長
『出版するきっかけを頂き、執筆の伴走までして頂いたからこそ、著者としての私があります。』
- 出版プロデューサー 晴山陽一について
- 『人口も少ない、京都最北端 京丹後市の小さな英語塾を営む私に、本を出すという夢を叶えてくれたかけがえのない先生。出版するきっかけを頂き、執筆の伴走までして頂いたからこそ、著者としての私があります。』
- 著者として、晴山書店を推薦する理由
- ・地元 京丹後市の出版パーティーに市議会議員も来てくれた
・教育員会や英語教育業界の著名人とも知り合いになれた
・大阪・東京からもセミナー講師の依頼が来るようになった
・通訳・翻訳の話も来た
・英語塾の生徒も100名から140名に増えた - プロフィール
- 『自己肯定感の低かった私。
英語教育を通して自分を好きになれる人を育てたい!
京丹後、日本海の英語講師』
クスダ英語塾
楠田 ゆかり
紹介インタビュー
楠田が生まれたのは大分県日田市。
福岡県との県境にあり、日田天領水で有名な水の綺麗な環境で育った。
両親は小さな魚屋を営んでいた。
4歳差の兄ともう一人兄がいたはずだったのだが、事故で亡くなった。
そのせいか、楠田は幼い頃、あまり外に出してもらえなかった。
ずっと家の中で遊んでいた。
読書したり、ままごとをしたり。
活発ではなく、スポーツが苦手な子だった。
小学校にあがっても、状況は同じだった。
みんなが楽しそうにやっているドッチボールについていけなかった。
友達も少なく、男の子とは全く話せなかった。
唯一、国語は得意だった。
読書感想文は常にトップ。
大分県の読書感想文コンテストで、最優秀賞を取ったこともある。
大きくなったら本を書きたい。
漠然とそんな夢を持っていた。
中学時代に通った塾の先生が、とにかく厳しかった。
英語の発音に関しても手を抜けなかった。
楠田はカセットテープを何度も聞いて練習した。
すると、その厳しい先生に『発音が綺麗だな』と褒められた。
楠田はたったそれだけで、『私って、英語が上手なんだ』と思い込んだ。
ここから楠田の英語教育の道につながるのだから、褒めるという事が、いかに大切かが分かる。
楠田の場合、このひと言で人生が決まった。
英語が得意な楠田は、高校でも英語の成績はトップだった。
楠田の通った高校では、海外留学に行く子がいた。
楠田ほど英語の実力がない子たちが、海外を経験していった。
一方、楠田の両親には経済的に余裕がない。
海外留学なんて行かせてもらえない。
誰にも相談できず、一人悩んでいた。
24時間、英語に囲まれたい。
叶わないと思いながらも、その思いは益々大きくなって行った。
楠田は悔しかった。
諦めかけていた頃、YFU(Youth For Understanding)という奨学金制度を見つけた。
これに応募して全額支給されたら行かせて欲しいと、親に頼んだ。
結局全額支給には至らなかったが、楠田は晴れて海外留学する機会を得た。
オーストラリアのブリスベンで過ごした1年は、まるで夢のようだった。
初めて経験する海外。
憧れていた英語に囲まれる世界。
楠田はさらに英語が好きになって行った。
京都外国語大学に進学し、ESSにも所属した。
英語コンテストにもエントリーし、近畿大会で3位になったこともある。
卒業後、就職したのは大手英会話スクール『G』。
2年勤めて寿退社した楠田は、ご主人の実家である京丹後市に移った。
日本海に面する京都の最北端。
そこで二人の子に恵まれた。
幼子とご主人とその家族。
話す相手は限られていた。
それまで夢中で勉強してきた英語を使う場など全くなかった。
人の少ない田舎町。
友達は一人もいなかった。
寂しかった。
社会的なつながりが欲しい。
そう思って始めたのが英語塾だった。
最初はご主人の友達や、その子どもたちが来てくれた。
新聞広告を出したり、ポスティイングしたり。
チラシを本屋さんに置いてもらったりもした。
一人、また一人と少しずつ増やして行った。
そして、今では生徒140名。
地元では有名な英語塾になっている。
楠田が一番嬉しかったのは、塾の生徒がレシテーション・コンテストで優勝した時のこと。
そのコンテストは、京都府北部 宮津高校で毎年開催されている。
周辺の中学校12校それぞれから1名代表が選ばれて競う。
12校中で1位になった教え子の母親は、我が子の名前が呼ばれた時、泣いていた。
その子も誇らしげだった。
スピーチ・コンテストで楠田は悔しい思いをしたこともある。
発音は完璧だったはずなのに、入賞しなかったことがある。
何がいけなかったのか?
勝ち進んで行くスピーカーを見て気づいた。
自分の塾の生徒のスピーチには『心』がなかった。
感情の起伏を表現出来ていなかった。
そして、マーチン・ルーサー・キングの伝説的な演説が課された。
黒人の歴史を学んだ。
奴隷、虐待、殺人。
目を覆いたくなるような数々の史実。
黒人になりきり、マーチン・ルーサー・キングになりきり、必死にスピーチの練習に取り組んだ。
英語教育に長らく関わり、独自のノウハウも蓄積されて行った。
小学校の頃から本を書きたかった。
出来れば英語について。
しかし、自分には実力も才能もまだないと思っていた。
晴山の指導のもと、電子書籍を出版したことにより、活躍の場がどんどん広がった。
京丹後だけではなく、大阪・東京からもセミナー講師の依頼が来るようになった。
通訳・翻訳の話も来た。
そして、英語塾の生徒も100名から140名に増えた。
今もどんどん世界が広がって行ってる。
ストイックなまでに努力を惜しまない楠田。
その根底には、小さい頃からの自己肯定感の低さにある。
外で遊べなかったスポーツの苦手な子。
内気でおとなしい読書好きな少女は、中学で出会った英語で自信を付けていった。
楠田が一番望むのは、自分の事を好きになれる人を増やすことらしい。
英語教育を通して、人を育てたい。
その夢を実現するため、楠田は今日も教壇に立っている。