PROFILE

略歴

代表取締役 晴山陽一

1950年、東京都に生まれる。

人一倍多感な少年で、中2から大学2年までの6年間、胃潰瘍に苦しんだ。早稲田大学哲学科に進学。大学2年の時に禅と出会い、病気と決別する。大学4年の時、1か月で6千個のドイツ語単語を完璧に暗記。このころから「方法論の鬼」となる。卒論のテーマはアリストテレスの形而上学。

大学卒業後2年間、演奏活動をしたのち出版社に入り、いきなり20万部の大ヒットを自作して、社内を驚かせた。その後、自動編集システムの開発、雑誌の創刊、多数の単行本の刊行、英語ソフトの開発と営業など、前人未到の業績を残す。

47歳の時、会社でやれることはやり切ったと判断し、発作的に退職して、フリーランスの作家となる。 ほぼ毎月本を書き、「月刊晴山」と呼ばれる。10年連続10万部を記録し、2007年に100万部達成。ほとんどの大手出版社から本を出し、現在までに200冊を出版。押しも押されもせぬベストセラー作家である。

東日本大震災ののち、出版界の低迷に危機感を覚え、晴山塾という出版塾を創始し、100人以上の著者を育てる。また、英語教育カンファレンスを毎年主宰し、日本の英語教育界を牽引。 2018年10月、自ら株式会社晴山書店を設立し、出版界の風雲児を目指す。今年、70歳を迎えるが、著作と後進の指導と会社経営に、休むことなく邁進している。

私の履歴書

クラスメートがいまだに覚えている「10万歩のエピソード」

あれは小学5年生の時のことでした。
50年以上たった今でも同窓会で話題になるエピソードがあります。
ある日、担任の先生が『家までの歩数を測りなさい』という宿題を出しました。
僕は停留所で13個も離れた所からバスで通っていましたが、その日はバスには乗らず歩いて帰りました。
翌日、一人一人当てられ『私は〇歩でした』、『僕は〇歩でした』と次々に答えていきます。
やがて僕の番が来ましたが、遠くからバス通学していることを知っていた先生は、僕を飛ばそうとしました。
すかさず僕は、『10万3268歩でした!』と答えたのです。

『晴山君、君も歩いたのか!?』と、先生が顔色を失ったのを今でも覚えています。
しかも、どうやって10万もの数を数えたのか!

「歩いているうちに数が分からなくなってしまうだろう」と、歩き出したとたんに思いました。
そこで、思いついたのが、百歩ずつ両手の指を折っていき、千歩進むごとに小さな石を拾って、半ズボンの右のポケットに入れていくという方法でした。
小石が10個たまって1万歩になると、大きな石1個に替えて反対のポケットに入れました。
それを繰り返し、家に着いてからポケットの中の石を数えると、大きな石の数が10個、小さな石の数が3個。それプラス、手で数えた数字を足して、10万3268歩であると分かったのです。
これが半世紀以上経っても、いまだにクラスメートが忘れられないエピソードになっています。

はじまりは恋愛小説

「10万歩のエピソード」と同じ学年の小学5年の時、後に小説を書くきっかけとなる出来事が起こりました。
クラスに、関西から女の子が転校してきたのです。
ふつう女の子のランドセルは赤と決まっていましたが、その子のランドセルは見たこともない美しい若草色でした。
全く響きの違う関西弁で話すその子の声は、コロコロ弾むようで、とても耳に快いのでした。
一瞬でその子が好きになりました。
何とか話すきっかけはないものかと考えていた僕に、すぐにチャンスは訪れました。
学年でフォークダンスの練習をすることになり、パートナーを背の順で決めたのです。
そして、信じがたいことに、その関西から来た女の子が僕のパートナーになりました。
自然と仲良くなれた僕は、嬉しくて仕方がありませんでした。
関西から来たばかりの彼女にはまだ友達も少なく、夏休みには僕の家に遊びにも来てくれました。
有頂天になった夏が終わり、2学期が始まりました。
しかし、ある朝、その子から手紙を渡されたのです。

そこには『あなたとはもう話したくありません』と書かれていました。
こうして、理由もわからぬまま、あえなく初恋は終わりを告げました。

この時のことを、4年後の中学3年生の時に、僕は小説に書きます。
緑色の表紙の布製のノートに書いたのは、石川啄木の影響です。
啄木の『あこがれ』という本は、啄木自身によって綺麗に装丁されていました。
自分が本を書くなら、装丁までこだわりたい。
そんな思いで布製のノートを選びました。
また、小学生の時に読んだドリトル先生シリーズは、著者のヒュー・ロフティングが自ら挿絵も描いていました。
それにも影響を受けた僕は、思い出の写真や、彼女からもらった手紙も付けて、リアルな作品に仕上げました。

この時、僕は本を作る喜びと切なさを、かすかに覚えたように思います。
とにかく中3の少年が、寝食を忘れるようにして、小説の執筆に没頭したのです。
初恋の顛末を小説にしたためたノートを学校に持っていくと、クラスメートの1人が貸してくれと言います。
そして、翌日には、多くのクラスメートが回し読みしていたのです。
彼らの反応はすさまじく、中には『感動で涙が出た!』と言ってくれた友人もいました。

劣等感から哲学書に逃避

入学した中学は、父が教師をしていた教育大付属駒場中(現筑波大付属駒場中)。
そこは優秀な生徒ばかりでした。
どちらを見ても秀才や天才の集団の中で、僕は次第に劣等感を抱くようになっていました。
中2の時に十二指腸潰瘍になり、中3には胃潰瘍。この時に始まった腹部の痛みは、大学2年まで続きました。

自信を取り戻すため、僕はいつしか哲学書を読み漁るようになりました。
優秀な同級生に勝つには、難しい哲学書を読むしかないと勝手に思い込んだのです。胃はますます痛みを増しました。その流れで、大学受験科目の社会で選択したのは『倫理・社会』。
使用した参考書が、中村元博士の監修で、やけに『仏教』に詳しかったのを覚えています。
普通の人間が、修行によって覚者になるというプロセスに、とても惹かれました。

大学紛争で東大が入試を行わない年にぶつかり、早稲田大学の哲学科へ進学。
在学中、世界的禅者 鈴木大拙の書籍によって心が晴れ、6年続いた胃痛がぴたりとおさまりました。
卒業時には、鎌倉円覚寺にて朝比奈宗源老師のもと、禅で最も厳しい修行と言われる『大接心』に参加しました。
1年後の春、悟りの境地のような体験をし、その晩、以前は理解できなかった菩提達磨の『二入四行論』を読むと、スラスラと理解することができるのです。まるで魔法のようでした。
ただし、一箇所だけ、どうしても理解できない所があり、その本の監修者でもある、禅思想史の世界的権威 柳田聖山先生に手紙を送りました。
すると、『ここに疑問を持つとは、君は凄い!』と褒められ、その後先生に非常にかわいがられました。
結婚式にも主賓としてお越しくださり、『京都にもたくさん学生がいるが、晴山君が最高峰です!』と持ち上げてくださいました。当時柳田先生は、京都大学の人文研究所の所長をされていました。

処女作が20万部の大ヒット!

24歳の時、教育社という出版社(現Newton社)で、アルバイトとして働き始めました。
哲学科というつぶしの効かない学科を卒業したため、卒業後就職できず、2年間ほど禅とリコーダーの演奏に没頭していたのです。
プロの合奏団から頼まれて、ビバルディのリコーダー協奏曲のソロを吹いて関西をまわったこともあります。
チェンバロの第一人者 小林道夫先生のお誘いを受け、ジョイントリサイタルを開いていただいたこともありました。

前から2列目 女性に挟まれた若き日の晴山氏

2年間を好き勝手に過ごし、段々このままではいけないなと思うようになっていました。
そんなある日、父親の机の上に置かれていた出版社のアルバイト募集の葉書を見つけて、応募しました。
父親が英語教師だった関係で、深い理由もなく、英語教材を編集する部署に配属されました。1年アルバイトとして働いたのち、正社員となりました。

社員となって2年後、会社の精鋭部隊が、出向指導という形で子会社に送り込まれるということがありました。
最初は、柳川藩主の血を引く十時道秀(とときみちひで)という課長とウマが合い、楽しく仕事に取り組んだのです。しかし、やがてアメリカ育ちの十時氏が社風と合わず、更迭される事態が起きました。
新しく着任した課長とは、今度は水と油のように気が合いません。
十時氏を慕っていた僕はグレてしまい、髭を伸ばし、頻繁に遅刻もするようになりました。

出向した精鋭部隊が本社に戻された時、僕にだけは声がかかりませんでした。
島流しのような状態になってしまったのです。
僕はますますグレました!
ただ、英語を担当していた僕は、会社に入った当初から、日本の英語教科書、参考書、問題集に強い不満を持っていました。
そこで、この左遷状態を逆手にとって、勝手に英文法の原稿を執筆し始めたのです。
その数、約500ページ。

ようやく社長の怒りもおさまり、本社に戻されました。
それと同時に、僕がひそかに原稿を書いていたことがばれてしまいました。
ただし、おとがめは無く、幸運なことに社内原稿の形で書籍化される運びになりました。
思いがけないことに、それがなんと20万部の大ヒットになったのです。
1か月後には、僕の机の上に大量の愛読者カードが積み上げられていました。

これが僕の処女作『やさしいイラスト英文法』です。200枚ほどのイラストも、すべて自分で描きました。
今から思うと、もしもあの時にグレて島流しになっていなかったら、本を書くことはなかっただろうし、後年作家になるという展開もなかったかもしれません。
人生はまことにわからないものです。

当時、文部省教科書審査官のトップだった小笠原林樹氏(早稲田・慶応義塾大学講師、言語学者、日本英語教育学会理事長)が偶然この書籍を目にし、『会いたい!』と仰っていただきました。20代の若者が独力で書いたことに驚嘆されたのです。学者や研究者でもなければ、学校教師でもない、民間の出版社の一社員が書いた英文法書としては、信じがたいクオリティの高さだと絶賛して下さいました。

その後、小笠原氏に請われて、彼の学会で『教材と英語教育』というタイトルで3時間の大講演をしたこともありました。

ベストセラー作家への道

40代後半になり、経済誌の創刊、多くの本の刊行、英語ソフトの開発など様々なチャレンジをしてきた僕は、次なるステージを模索していました。

たまたま書き上げた書籍原稿を、当時『マーフィーの法則』を大ヒットさせていたアスキー社の遠藤編集長に見ていただく機会を得ました。そして、その場で『是非、出版させてほしい!』ということになりました。

そのとき、『他社からの出版ですから、ペンネームにしますか?』と尋ねられました。僕はとっさに閃くものがあって、『いえ、本名で結構です! 会社は辞めますから!』と答えてしまいました。この瞬間に、僕は作家として独立することを決断したのです。

1997年8月15日、折しも終戦の日。あっけなくサラリーマンとしての闘いが終わった日。そして、新たなチャレンジが始まった日。僕が47歳になったばかりの出来事でした。

初年度(1998年)だけで5冊刊行。その5冊目となる『英単語速習術』(ちくま新書)が大ヒットし、作家として名が知られるようになりました。1か月に1冊という、通常あり得ないペースで書き続け、年間最大14冊出版したこともあります。

独立当初の晴山氏

2008年には、10年連続10万部という記録を打ち立て、押しも押されもせぬベストセラー作家になっていました。そして、その10年後の2018年に、今度は出版社を立ち上げた、というわけです。

思えば入社の数年後に、英語を学ぶ中高生のために、やむにやまれず原稿を書き、会社をやめてからは、社会人の方々のために、やむにやまれず200冊の本を出し続けてきました。

人生を牽引するのは、野心でも野望でもなく、この「やむにやまれぬ思い」なのだと、つくづく思います。そして僕は、やむやまれぬ思いをいだき、晴山書店をスタートしたというわけなのです。